正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)通称:野間大坊(のまだいぼう)と言います。お寺の歴史は古く、天武天皇(673~686)の時代に『阿弥陀寺』として建立しました。その後、弘法大師(空海)が全国を廻った折、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。そして承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されました。
のちに源義朝がこの地で謀殺され、それを供養するために源頼朝が本尊様の念持仏を寄進し、塔や金堂(こんどう)講堂など諸設備が調った七堂伽藍を造営します。また豊臣や徳川の庇護も厚く、各時代で繁栄してきました。本尊様が源頼朝の願いを叶えたことから、祈願成就・開運の寺として信仰を集めています。
平安時代末期、京都の平治の乱で、平清盛に敗れた「源義朝」がこの『大御堂寺』のある野間へ家臣を頼ってやってきました。その家臣(長田忠致・景致)の裏切りに遭い、義朝公はこの地、野間で殺されてしまいました。謀反の際、「我に木太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん。」と無念の死をとげた義朝公のため、木太刀が奉納されています。義朝公のお墓や、御首を洗ったとされる「血の池」等、そのゆかりが境内に多数あります。後に源頼朝公が、亡くなった源義朝公の菩提を弔うために、建久元年(1190)に開運延命地蔵尊(お地蔵様)と不動明王・毘沙門天を納めました。そして七堂伽藍を造営します。
その後、豊臣秀吉公、徳川家康公の庇護をうけて発展しました。
現在では、尾張地方屈指の護摩祈祷の寺として信仰を集めています。
平治元年(1159)長田忠致(おさだただむね)親子により討たれた義朝公の御首を洗った池。国家に一大事があると池の水が赤くなると言い伝えられています。