江戸時代初期の狩野派絵師、狩野幽探の作品や、豊臣秀吉が晩年を過ごした居城の一部を移築した建物など、その時代を感じる宝物に触れてください。数々の宝物は国の重要文化財や愛知県の文化財などに指定されております。
尾張藩初代藩主徳川義直(1600~1650)の命により、狩野探幽が18歳のときに描いた作品です。
「義朝最期図」には平治元年(1159)十二月の平治の乱に敗れて落ちのびる源義朝が、尾州知多郡野間の地で譜代の家臣であった長田庄司忠致父子によって謀殺され、のちに義朝の子頼朝が忠致父子を磔に処する話が描かれ、もう一方の「頼朝先考供養図」には、建久元年(1190)十月、頼朝が上洛の途上に野間に立ち寄り、父の供養のために修した大法会の様子が描かれています。本図には絵解き台本が伝わっており、その内容はおおむね「平治物語」に依拠しています。
建長2年(1250)、鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣によって寄進されました。尾張地方で最古の梵鐘といわれています。
豊臣秀吉公晩年の居城『伏見桃山城』の一部を寛永年間(1624~1643)に移築したものです。本尊様は源頼朝が納めた『開運延命地蔵菩薩』(秘仏)「源義朝公御最期の絵解き」はここで聞くことができます。護摩祈祷を受けるのもこの場所です。
大御堂寺本堂の御本尊として安置されています。明らかに定朝風を示す藤原時代後期の県下有数の阿弥陀如来像です。
親鸞上人が師である法然上人の入滅(1212年)に際し、その法然上人の供養のために作ったのがこの像です。快慶の作品です。
明和8年(1771)辛卯冬11月吉日 知多郡内海中之郷邑榎本犀助章清の寄進。この算額は、国の現存算額の中で5番目に古いものです。大変保存状態がよく、鮮明で充分読むことができます。裏面には明治45年に表面の細字を墨で補色した胸が書き込まれています。
(写真は、大御堂寺本堂東上に掲げてあるレプリカです。)
この寺の根本堂です。現在の建物は3度の火災等に遭い、宝暦4年(1754)に鎌倉様式に則り、再建されました。